現在、各地の図書館で
「アンネの日記」が破られる事件が多発していますが
何者が犯人なのかは分かりませんが
「アンネの日記」自体は捏造です。
1942年6月14日、アムステルダムの隠れ家で
アンネ・フランクが日記を付け始めたとされています。
しかし、これは捏造された歴史です。
アンネの日記は、
戦勝国側がドイツを悪とする為に利用したプロパガンダ本です。
彼女は、アウシュヴィッツ収容所でガス殺されたと言われていますが
それは、事実ではありません。
アンネ・フランク
事実は、1945年の3月、
彼女はソ連軍の侵攻の前にアウシュヴィッツ収容所から
ベルゲン・ベルゼン収容所に移送され
そこでチフスにかかって病死したのです。
アンネと姉の2人はベルゲン・ベルゼンに移送され
チフスにかかって病死しました。
ベルゲン・ベルゼン収容所
現在は、資料館になっているベルゲン・ベルゼン収容所の入口には
アンネの写真とともに
明確に彼女がチフスで亡くなった事が示されているのです。
ユダヤ人学者のプリンストン大学アーノ・メーヤー教授でさえ
「ナチスの多くは殺戮より労働力としてユダヤ人を利用していた」
「自然死(疫病死)」のほうが多かったと主張しています。
アンネの日記は、彼女が13歳の頃から書き始められたにしては
筆力があまりに大人びている事や文章がたくみである事
筆致のすばらしさに疑問を感じる人たちがいました。
アンネの日記には、アンネの父親、オットー・フランクが、
アメリカのユダヤ人作家メイヤー・レビンに依頼して書かせ
その対価としてメイヤーに5万ドルが支払われました。
アンネの日記は、ボールペンで書かれています。
しかし、ボールペンが世に出て
一般的に使用されるようになったのは、1951年以降です。
1945年に亡くなったアンネが書けるはずがありません。
これは、1980年にドイツで行われた裁判の際
ドイツの捜査当局、独逸連邦犯罪調査事務局の調査で明らかにされています。
1988年、当時アンネがアメリカの友人に送った手紙が発見されています。
その筆跡は、明らかにアンネの日記の大人びたものと異なっていました。
アンネの日記の筆跡
アンネが友達に宛てた手紙
・・・・・・・。
捏造された
南京大虐殺や従軍慰安婦と同じだ!
日本志士の会 信長